台湾帰りの双子妊婦ポポのblog

台湾で体外受精、双子妊娠、帰国、そして妊娠中の現在を記録します

はじめまして!(18w6d)

みなさんこんにちは、双子妊婦ポポです。

初めて産む子どもが双子さんになりそうで、今はとても緊張しています。

このブログは主に自分の気持ちの整理と、妊娠経過の記録のためです。

妊娠の過程で多くの人の温かさに触れる機会がありました。

ここに残しておけば、これからもぜったいに忘れないぞ、と思うわけです。

 

私たちはもともと子どものいない仲の良い夫婦で、今年で結婚して9年目。

家族・親戚はいつも私たちを温かく見守ってくれて、子どもを急かされたこともありません。

二人だからこそ、気軽に引っ越しをしたり、旅行をしたり。そんな生活はとても幸せでしたから、もし妊娠しなくても、構わないと思っていました。

ですが、35歳を目前にして、子どもを産むかどうかは、少しずつ重い、暗い話題になってきました。もともと好奇心旺盛で、気になることは何でも試してみたい性格でしたから、「妊娠・出産・子育てを経験してみたい!」という気持ちはずっとありました。

それを押しとどめてきたのは、やっぱり「自分にできるだろうか」「自分が親の責任を負えるのか」「子どもを絶対幸せにすることなんてできるのか」という不安でしたね。

たまーに思い出したように子どもの話題をふる私に、夫は「病院行くか?」など声をかけてくれることもありました。ですが元々、夫は「どうしても子どもがほしい!」というタイプではありません。私も、「どうしても、というわけでは...」と煮え切らない感じで、結局、日本に住んでいる間は、行動を起こすことはありませんでした。

 

そんな時、たまたま夫が会社から台湾勤務の辞令を受け取り、私も飛び跳ねて喜びました。新しい土地に住むことは、私たち二人の共通の楽しみです。仕事を辞めて夫に帯同した私は、そこで台湾暮らしを思い切り満喫する機会に恵まれました。

私たちが住んでいたのは台北ではなく、昔ながらののんびりした時間が流れ、人々は互いに関心を払い合いながら、時におせっかいに、時にぶっきらぼうに生きる、そんな街でした。

特に、不慣れな外国人だった私たちには、好奇心と親切で多くの台湾人が声をかけてくれ、案内してくれ、友達になってくれました。台湾人の表現はストレートで、気持ちがまっすぐに伝わってきて、こちらも素直に受け取ることができるのです。

「困ったときは、きっと誰かが助けてくれる」

「私も、困った人には、手をさしのべられるんだ」

そんな確信を持つようになったころ、私のなかで自然と、「子どもほしいな。こんな温かい人のつながりの中で育てたい。私の感じているこのあったかい気持ちを伝えてあげたい」という気持ちが生まれました。そして、夫を促し、台湾の病院で、初めての受診をしたのです。

 

そこからあっという間に体外受精に進みました。進んだ後もすぐには結果が出ませんでしたが、一度の流産を経て、今回の双子妊娠に至りました。

妊娠が分かったちょうどその日は、なんと、夫が新しい辞令を受けて日本に帰国するその引っ越し当日でした。私は台湾在住を利用して進学していた現地の大学院の卒業まで残り一年だったので、一人で残留する予定だったのです。

「台湾だから、私ひとりでも大丈夫」

私も夫も、そう思って、予定通り引っ越しを進めました(荷物は全部引っ越し屋さんに任せましたよ)。ですが、一週間、二週間経つうちに、徐々に不安が募ってきて、最後には、大学院を休学して帰国すると決意し、夫の反対を押し切って手続きを進めました。

お医者さんは「安定期に入るまで飛行機に乗るのを待ちましょう」と言ったので、じりじりとその日を待ちました。それまでの日々は本当に長かった!

あまりに帰国が待ち遠しくて、飛行機がとうとう着陸したときには、「まさか生きて再び日本の土を踏めるなんて...!」と感動したものです。

 

それから、夢にまで見た自宅に帰り、段ボールを片付け、体調も落ち着いてきて、やっと少し、これまでの日々を振り返る余裕が生まれてきました。

日本に帰ってきてからは、体調の安定もあってか、毎日が過ぎるのがとても速いです。このままでは、何もかもすぐに忘れてしまいそうなので、ブログを始めようと思いました。

妊娠と関係ないこともあるかもしれませんし、人様の参考になるようなことが書ける自信もありません。ただ、自分の気持ちには誠実に、ここにストレートに表現していこうという気持ちです。

これから、どうぞよろしくお願いします!

産後ケア入院(坐月子)について(18w5d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

今日は、最近日本でも広まりつつある、産後ケア入院について台湾と比較して思うところを書いてみたいと思います。

 

「産後ケア入院」とは、出産後、産院を退院したあとに、産後専用のケア施設に入所することです。うちの自治体では「産後ショートステイ」なんて言ったりしています。ケア施設には、助産院や、産婦人科のある病院などがあります。費用は基本的に自己負担ですが、自治体の助成がある地域もあります。私が住んでいる地域でも昨年10月から助成が始まりましたが、たったの一泊二日だけ...(泣)もちろんない地域の方に比べれば恵まれていますけどね。

 

台湾には、より多くの産後ケア施設(月子中心といいます)があり、出産後に「一か月間」入所して、心と体を休めながら、赤ちゃんのお世話のしかたを練習するのが割とポピュラーです。月子中心は台湾でも比較的高価な施設ですから、すべての人が入るというわけにはいきませんが、施設に入らないなら一か月間、自宅で療養することが一般的です。療養の際は、お姑さんや実のお母さんが、産後の体によいとされる薬膳料理を準備します。親御さんが頼れない場合、産後の薬膳料理を三食配達してくれる宅食サービスも充実しています。というのも、「産後にしっかり養生しないと、更年期がつらくなる!」という話がまことしやかに信じられているからです。

妊婦の立場から見ると、この伝統、とってもすてきだと思いませんか?

私が台湾で語学学校に行っていた時、授業でこの月子中心の話題が出て、教室にいた日本人学生みんなが歓声を上げてうらやましがったのを覚えています。産後の薬膳料理も、材料をそろえると結構なお値段になるらしく、赤ちゃんのお世話もしてくれてゆっくり休める月子中心は、共働きの台湾ママにとって、それなりに妥当な選択肢なんだとか。施設によってホテルみたいに豪華なところから、病院の延長みたいなリーズナブルなところまでいろいろあるし。

話を聞いて私も思いましたよ。「一生に一度でいいから、そんな安心できる環境で産後を過ごしてみたい」って。特に、赤ちゃんのお世話の練習ができる、困ったらすぐに相談できるっていうのが、私としては非常にポイント高かったです。自信ないので。

また、一か月間っていうのが、ゆったりできそうでいいですよね~。出産経験のない私は不安でいっぱいですが、一か月も専門家がそばについてくれるなら、そのあとは一人でも頑張れそうじゃないですか。

私はいろいろあって今回、台湾で妊娠したものの、日本に帰国して出産・育児することを決めましたが、決意したときに頭に一瞬よぎりました。「あ、月子中心行けないや...」と。費用を出すのは夫なので、まだ許可ももらってもいなかったのですが、心のどこかで期待していたんだなと自分で笑ってしまいました。

 

さて、話は戻って日本の産後ケア施設ですが、こちらは台湾のように薬膳料理を期待して入所するところではないので、各施設の考えで料理を提供しているようです。滞在期間は一週間程度の人が多いのでしょうか?自治体の助成も、出すところは一週間出してくれるみたいです。

私は最初に台湾の月子中心のことを知ったので、ケア入院がたった一週間と聞いて、「短い!」というのが第一印象でした。でも実際は、それだけあれば数日の休息と、数日のお世話の練習と、その都度のアドバイスが受けられそうですね。家計に余裕がある人は、もちろんいられるだけ長居してゆっくり休息してほしいと思います。

 

 日本の友達でも、台湾で知り合った友達でも、「一人目を出産したときに本当に大変だったし、その後の育児もワンオペで回さなきゃいけない。兄弟姉妹がいなくてかわいそうだなと思うこともあるけど、やっぱり二人目は考えられない」と口をそろえて言っていました。皆が同じ口ぶりでそう話しているのを見ていると、各家庭の考え方どうこうじゃなくて、核家族で子育てをすると、必然的に一人っ子が増える構造があるんだなと思わざるを得ません。

私はたまたま双子を授かりましたので、このまま無事に出産したら、もう次は産まないかなと思っています。でも、一人っ子だったら、きっと悩むでしょう。。産後ケアがもっとポピュラーで身近なものになってくれたらいいなと思います。

子どもをつくることについての夫の聡明な態度(17w6d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

今日は、私の夫の、子どもをつくるということについての態度で、私が普段からすごいなと感じていることを書いてみたいと思います。

 

私たちは今年結婚9年目の夫婦です。これまでに何度か、「子どもはほしい?」と聞くことがありました。夫の答えはいつも変わらず、一貫して「どちらでもいい」「子どもよりポポが大事」と言うのです。恋人時代は「ポポが大事」という言葉に素直に喜んでいましたが、結婚後しばらくして、次第に、その言葉が「子どもは大事ではない」という意味に聞こえて不安になってきました。「この人は、子どもができてもかわいがってくれないかもしれない」と。

自分自身が子どもを授かるために頑張ろう、と決意できるようになる前は、夫のこのような中途半端に思える態度にイライラすることもありました。「もし夫が、子どもがほしい。一緒に頑張ろうと言ってくれたら、私も安心して踏み出せるのに。」とか、「二人の子どもなんだから、もっと責任もってほしい。」「お金をかけてまで子どもがほしいというのは、私ひとりのワガママだってこと?」など、自分にはできない決心を、夫に代わりにやってもらいたいという気持ちがふくらんでいました。

しかし、不妊治療を経て、私の受け止め方が変わってきました。夫の「どちらでもいい」という返答は、実は深く考えられた大正解の答えなのではないか?と。なぜなら、もし夫が「子どもがほしい」と言ったならば、私は子づくりのプレッシャーに晒され、子どもができないことで自分を責めたかもしれません。また、もし夫が「子どもはほしくない」と言ったならば、私は、自分自身の「いつかは親になりたい」という気持ちを諦めるべきかどうかで、つらく悩んだかもしれません。

夫が「どちらでもいいよ」と判断を私に投げてくれたおかげで、私は、自分の思うままに時間をかけて悩むことができ、体外受精に踏み切ったあとも、どんな結果でも後悔しないという気持ちで臨むことができるのではないでしょうか。

不妊治療はどうしても女性側の負担が大きくなります。また、妊娠・出産・育児でも、妻が何とかしなければいけない部分が非常に大きく、夫が代わることのできないこともあります。そういう意味で、私が「やりたい」と言ったときには、お金を気にせず挑戦させてくれ、余計なプレッシャーもかけることなく、落ち込んだときには優しく寄り添い、「ポポがいればいいんだよ」「つらかったらやめてもいいんだよ」と言い続けてくれる夫の存在は、本当にかけがえのないものでした。

「夫は、私が思うよりずっと多くのことを考えているのかもしれない」と思うのです。私には計り知れないほどの深い愛情で見守ってくれる夫にいつも感謝しています。

亡き父の友人より(17w4d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

今日は、私の亡くなった父とこの家の思い出について書こうと思います。

 

というのも、先日、父の友人から一通のハガキが届いたのです。

その人は父の小学校の同級生で、父が亡くなったことを知らない様子でした。文面には、「お互い70歳になりましたね。懐かしくなって同窓会名簿の住所を調べました。届いたらどうかお返事ください」と書かれていました。

父がもし生きていたら今年70歳になるのか...と感慨深い気持ちでした。

また同時に、ほんの数か月前まで他人に貸していたこの家に、私たちがこのタイミングで戻ってきて、無事にこのお便りを受け取れたことになにか深い縁を感じました。

差出人は父の小学校の同級生ですから、当然私と面識があるはずはありません。57歳という若さで亡くなった父のことを知ったら、この人はどう思うだろう...としばらく物思いにふけりました。「この人に会ってみたい」「この人と父の思い出を語りあかしたい」、そんな気持ちが次第に固まってきて、私は母にもハガキを見せた上でお返事を書くことにしました。

 

今回、このハガキを受け取ることができたのは、今、私が日本で住んでいるこの家は、私が小学生の頃に引っ越してきて以来、家族で過ごしてきたところだからです。子どもたちも独立し、すっかり空き家の物置状態だったこの家を、ほんの思い付きから私と夫で片付け、母と兄を駆り出して荷物を処分し、リフォームしました。自分で住むことも、人に貸すこともできるようになり、退職後の母にとっても月々の収入の助けに、という思いもありました。

家中に積み重なる大量の荷物を片付ける過程で、思いもよらぬ発見がありました。それはすっかり忘れていた子どもの頃の記憶と、家族の温もりでした。母は、私の物も、兄の物も、当時の生活の記録も何一つ捨てずに、この家にため込んでいたのです。片付け中に自分が昔描いた絵を見つけ、保育園児が描いた絵など、取っておいてもしょうがないと私が捨てようとすると、母はものすごく抵抗しました。母にとってはその当時の一瞬一瞬が、二度と取り戻せない大切なものなのだと感じ、なんだか感動してしまって何度も涙をこらえました。

保育園の先生や、小学校の先生が書いてくれたコメントや、家族で回していた交換日記、古い写真など...片付けの過程で母と思い出を語り合い、「あの頃、確かに私は愛されていた」という幸せな思いに浸ることができました。そして、いくつもの思い出が同時に、「ああ、お父さんがいたらなあ」という気持ちを呼び起こさせました。母と、古い資料を見ながら「これ、お父さんがね」と振り返り、昔のことを教えてもらったり、逆に母がいないときに「お父さんがこんなことを言ってたよ」なんて話もしました。大人になってから、母とゆっくり話すこんな時間が取れるとは、思ってもみませんでした。

それから、片付けはすっかり済み、リフォームも終わっても、不思議とこの家は私にとって懐かしいままです。ベランダに出れば変わらぬ風景と日差しがあるばかりでなく、部屋のサイズ感が、梁が、柱の位置が、私の思い出を刺激し、かつての姿を呼び起こしてくれるような気がします。

そんな家族四人の思い出の家に、今回、父宛てのハガキが届いたことは、まるでこの家に再び住み始めた私の選択が正しかったと言われているようで、この家での思い出をまるごと肯定されているような、嬉しい気持ちになりました。どうかこの家が、これからも未来と思い出をつないでいってくれますようにと、祈る気持ちです。

突然すぎる永遠の別れ(14w4d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

今日はとても悲しい話です。当たり前だったはずの友達のいる日常が突然なくなってしまいました。

 

私は二週間ほど前から、つわりのために台湾での一人暮らしを諦め、面倒見のいい友達の実家にお世話になっていました。学校には長期休みを連絡し、仲の良い友達にはもうすぐ日本に帰国するという旨を伝えていました。来週には、クラスで私の送別会を開いてくれる予定になっていました。

そんなある日の突然の出来事でした。

初めは夕方に見かけたフェイスブック上の一本の投稿でした。

「〇〇が行方不明です。知っている人がいたら至急連絡をください」

 

「〇〇」は私の通う大学院のクラスメイトの名前で、来週には私のお世話になっているこの家に来てくれる予定になっていました。会うといつも笑顔で、可愛らしく、よく声をかけてくれるので一番親しみやすいクラスメイトの一人でした。

 

その〇〇本人のフェイスブックアカウントから、上記のメッセージが発信されていました。

よく読むと「研究室の机の上に、携帯も、かばんもそのまま置いたまま、もう何時間も帰ってきていません。私たちは〇〇の友人です。彼女の行き先を知っている人がいたら連絡してください」と書かれています。

その後ろには何十件ものコメントが並び「無事を祈ります」というメッセージが続いていましたが、誰も行き先を書き込んでいる人はいませんでした。

心配でしたが、夜、家を出て一人で探し回ることも体力的に不可能だったし、何より、〇〇はとてもしっかりした子だったので、大丈夫だろうと思っていました。同時に、そんなしっかりした子が、友達を心配させるようなことをするか?という疑問もありました。

 

そして、その日の夜のニュースで、彼女が亡くなった状態で同級生により発見された、というニュースが流れました。フェイスブック上の投稿は、すでに、削除されていました。

 

現場を見た警察は、即座に殺人の疑いで捜査を始めました。〇〇を探していた友人たちは、すでに学校の許可を得て監視カメラを自分たちでチェックし、怪しい人影を捉えていました。警察は、翌日早朝に容疑者を逮捕し、容疑者は犯行を認めました。動機は借金だとも、わいせつ目的だとも言われました。

一連の素早い展開に、私の頭は全く追いつかず、何をしたらいいかもわからず、また、何かをする気力も起きず、ただいつも通りご飯を食べ、シャワーをし、部屋で横になり、時々思い出したように涙がこみあげてきましたが、短時間でやみました。

学校では、即座に学生へのカウンセリングを準備したり、談話室を設けたりして、対応している様子でした。誰かに連絡を取りたい気持ちもありましたが、じっとこらえ、今はただ混乱する自分の気持ちと向き合うことに努めました。

三日目、ようやくクラスのメーリングリストが稼働し始め、授業の連絡などが回ってきました。私はそのタイミングで級長に連絡し、来週の送別会は取り消そうと申し出ました。級長は私の体を思いやってくれ、こちらは学生どうしでお互いに気を遣い合ってるから大丈夫だよ、と言ってくれました。

一週間近く経って、私はかねてからの予定通り、学校に残していた自分の荷物を片付けるために出校しました。〇〇は私と同じ研究室で、部屋に入るとき、少しのためらいがありました。怖かったです。授業は休みになっていましたが、学校には多くのクラスメイトが来ていました。みんな、誰かと話したいのかもしれません。

仲の良かった先輩と二人で抱き合うと、涙が出てきました。名残惜しかったのですが、事務室のおばちゃんも、先輩も、クラスのみんなも、「あんまりここに長くいるんじゃない」「体に障るから早く帰れ」と言って追い出されてしまいました。こんなに大変なことになっているのに、みんなが大変な思いをしているのに、私は何もできないまま、家で横になっていることしかできないなんて、と。「私は守られている」、そのことが、ありがたいやら申し訳ないやらで、ただただ、なさけないばかりでした。

 

家に帰ってしばらくすると、週明けに学校での追悼式と式場でのお葬式があるという連絡が回ってきました。お葬式は少し遠い町で行われるため、そこまでバスで何時間もかけていくことはできず、また、皆にも心配をかけてしまうと思って行くのはやめました。学校での追悼式に向けて、折り紙の花を集めることになり、近所の文房具屋でこだわって選んだ紙で花や折り鶴をたくさん折りました。

夢中になって折っていると、なんだかちょっと気持ちが楽になります。猫背の姿勢を長時間続けていたので、背中が痛くなってしまいましたが、少し自分を痛めつけるくらいがちょうどいいと感じるような、そんな状態でした。

 

あれから10日ほどして、私は日本に帰ってきました。

つわりの時からずっと帰ってきたかった日本。前に住んでいた家に戻ると、妊娠前の日々と現在がうまくつながらなくて、「あれ?本当に妊娠しているのかな?」なんて疑問が浮かんできました。

翌朝、目が覚めると、お腹を触り、「あ、本当に妊娠している」と思いました。

その時、突然、〇〇の死が実感を伴ってやってきました。「妊娠しているのが本当なら、〇〇が死んでしまったのも本当なんだ。なんてことだ...」と。朝から泣いている私を夫が怪訝そうに慰めてくれましたが、理由を言うこともできないくらいショックで、ずっと茫然と涙を流していました。

 

どうして彼女だったのか。

もし私が妊娠していなかったら、死んでいたのは私だったかもしれない。第一発見者は私だったかもしれない。

双子が守ってくれたのか。それとも、妊娠していなかったら、彼女を救えただろうか。

 

色んな思いがこみあげてきます。でも、もう、何も確かめることはできません。

私にできるのはただ、元気な双子を産んで、報告することだけしかありません。

そのことが、こんなに悲しいなんて…

 

不妊治療の間、ずっと生まれてくる命のことを考えてきましたが、やっと生まれて無事に成長したあとに、こんな悲惨な事件が起こるなんて…。〇〇の親御さんの気持ちを思うと胸が潰れる思いです。

妊娠中、日本に帰ることを決めた理由(13w6d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

今日は、妊娠してから帰国を決めた私に、夫がよく言っていた「台湾に残ればよかったのに」「(台湾の)学校行きん(行きなよ)」「卒業しりん(しなよ)」という言葉について書こうと思います。

 

もー、この言葉を言われるのが、本当につらかった!胸がえぐられて、呼吸が止まるくらい苦しかったです。

 

夫がこれを言うのは、何をおいても「ポポのため」というのはよく分かっているんです。私は勉強をしているときが一番楽しくて、大学院に通っているときは毎日「楽しい」「幸せ」「帰りたくない」と言っていたんですから。妊娠が分かる前に夫の日本帰国が決まったときは、「一人で残る!」と即決しましたし、正直言って夫がいなければ、平日遅くまで大学に残ることも、週末に研究室にこもることもできる♪とわくわくしていたのも事実です。

ですから、妊娠したとたんに、私が意見を180度変えて、「帰る」「ムリ」「勉強はもういいの」なんて言い出しても、夫には理解不能だったことだろうと思います。いや、正直、私自身にも理解不能なところがありました。でも、理屈じゃない、もっと本能の奥の方から、そう判断するんです。何度かあらがってみましたが、抵抗できるものではありませんでしたね...。

夫は、単に私が初めての妊娠に不安がっていると思っていたようで、ちょっと励ませば、元気づければ、または叱咤激励すればやれる、と思っていたところがあったのではないかと思います。その過程で「みんな妊娠しても働いてる」「ポポならできる」と言われることもありましたが、この言葉もつらかったー。うちの母も、妊娠中も休まず働いて二人育てましたから、「仕事より楽な学校生活で何言ってるの?」という夫の言い分もわかります。私も、妊娠を知ったばかりのときは、「行ける」「特に台湾なら助けてもらえるし」と思っていました。

 

ところが、生活上の困難(料理できない、買い物行けない...等)もさることながら、一番つらかったのは、また、不可解だったのは、自分の中に「学校に行きたい。勉強したい。学校楽しい。勉強楽しい」っていう気持ちがあるのと同時に、「もういいよ。人生で一番大事なものを手に入れたんだ。この新しくやってきた命を大切にするだけで満足だよ」という気持ちがあって、その二つが決して交わらずに並立して存在しているということでした。言い換えれば、「個人ポポ」としての気持ちと、「母ポポ」としての気持ちの矛盾とでもいうのでしょうか。普段の矛盾する気持ちなら、考えているうちにどこかに共通点が見つかり、そこから解決策を探ることもできますが、「個人ポポ」と「母ポポ」は根源がまったく別のところからきているのか、まったく交わる要素が見つからず、本当に違和感しかありませんでした。

しかも二人のポポは、日によって、どちらかが強く、どちらかが弱く、それが入れ替わりながら徐々に「母ポポ」に乗っ取られていく、といった感じなのです。きっとホルモンの影響なのでしょうね。誰かが、「妊婦はホルモンの奴隷」と言っていましたが、この言い方には完全に同意します。出産したあと、あるいは子どもの手が離れたときに、また「個人ポポ」は戻ってくるのだろうな、と思うのですが。

 

つわりが重いとき、自分の中の「母ポポ」が強いなら、積極的にベッドに臥せり、「今日は休もう」と決めきることができます。それもまた「幸せ」とすら感じるのです。でも、「個人ポポ」が強いとき、休みたい「母ポポ」と対立するのです。

「どうして自分の体なのに、自分のやりたくないことをするの?」

 

「個人としてのポポ」は学校に行きたかったのです。クラスメイトたちと笑ったり、おしゃべりしたり、討論したかった。今学期の授業で楽しみにしていたことがたくさんあったのに、どうして私の体は動かないの。どうして?誰が、何の権利があって、私を支配することができるっていうの?!

ベッドの上で、そう思って、泣いて、叫んで、布団をこぶしで叩きつけました。「妊婦は大変」「つわりがキツい」...そんな言葉では全く想像できなかった、自分が「支配されている、コントロールされている、胎児の成長する道具となっている」という感覚。それは、私のこれまで生きてきた価値観とは全く相いれないものでした。

けれど泣きわめき、疲れて眠り、目が覚めてみると、「母ポポ」の力でしょうか、あれほど激しく感じた怒りは消え失せ、穏やかな気持ちで休息を楽しむことができるのです。つわりすら、愛おしいと感じるほどに。自分で自分が本当に不思議でした。

いつ食べるか、何を食べるか、いつトイレに行くか、いつ寝るか、何を幸せと感じ、何を喜びと感じるか...私の五体と、脳や価値観までもが、お腹の中の子どもたちに支配され、コントロールされているように感じました。子どものころから両親に尊重され育ってきた私にとって、この経験は初めて味わうとてつもない「不自由」でした。同時に、その状態を「幸せ」と感じる自分自身に、まるで「他人」を見るかのような違和感と興味深さを覚えました。

お腹の中にいるのはエイリアンじゃないか?とも感じました。私のやりたいこととは、明らかに違うことを要求する胎児たちは、少なくとも「他人」であり、「自分の子どもだから何?」ぐらいの気持ちでした。少なくとも私は、妊娠しなくても幸せに生きることはできていました。母親になることが幸せな人もいるけれど、全員とは限りません。「出産は個人にとって必要条件じゃない。それは人類という種にとっての必要条件なんだ。私は今、種の生存のための仕事をしているんだ。例え自分で望んだ受け入れた妊娠だとしても、このつらさ、この痛みを、個人的に対応するなんて理不尽なのでは?」という気持ちにもなりました。

 

それにしても胎児がまだ数ミリの段階で、すでに胸が張り、母乳の準備すら始まっているという状況には、本当に驚きでした。趣味的な説明で恐縮ですが、ガンダムに例えると、自分が自由に乗り回していた機体に、まったく知らない妊娠というモード機能があらかじめ搭載されていて、受精卵が着床したタイミングでスイッチが切り替わったように、突然モードが転換したような状態です(わからなかったらすみません)。「こんな機能があったのか!?」「これまで何も知らないままこの機体を使ってきたのか!」と自分の体の隠された機能について衝撃を受けました。いえ、知識としては知っていたのですが、それがこんなにも思うままにならないという、その程度の強さ、激しさに、まったくついていけなかったのだと思います。

  

 気持ちがあらぶっている時は、なぜ女性側だけが、こんな思いをしなくちゃならないの?そんな疑問も浮かびました。夫婦で妊娠しようと頑張ってきたのに、妊娠したとたん、妻は寝たきりになって、夫は変わらず仕事に行っている。不公平じゃないか、と。それから、そもそもなぜ生命は男女に性別を分けたのだろう、原子生物は両性具有だったじゃないかと進化の意味に考え始めました。また次に、百歩譲って女性が出産に専念した方が合理的な理由があったとして、なぜお腹の中で育てる必要があるんだろうとも考えました。卵みたいにつるっと産んで、体外で温めたなら、こんな痛みも気持ち悪さも感じずに済んだのに、と。そして、そのうち医療技術が更に進んだら、受精卵を体内に戻さずに、器具の中で育成することが現実化するんだろうなと想像しました。そうすれば誰もこんなつらい思いをせず、女性も働き続けることができて、男女の地位もどんどん平等になっていくのかもしれません。でも、もし、その施設が地震などの災害でやられてしまったら?...やっぱり母親がお腹の中で守りながら避難する方が、生存確率は上がるのかな?とか。

 

そんなこんなをつらつらと考え、私自身も混乱した状態だったので、どうしても帰国したい、というこの気持ちの理由を夫にうまく伝えることはとうとうできませんでした。つわりが徐々に治まるにつれ、私の中の「母ポポ」も勢力を増し、学校を休むことを当然と受け入れ、情緒不安定になることもほとんどなくなってきました。夫の同意を得ないまま学校を休み、ひとり暮らしを放棄して友達の家に住み込み、日本に帰ってから通う産院を予約している頃、いよいよ引き返せないと思ったのでしょうか、夫がとうとう帰りの飛行機の手配をしてくれました。半ば、実力行使のようなもので、状況から察してくれた夫には本当に感謝しかありません。

ですから、帰国してからもしばらくは、「学校行きん」「ポポは日本になんか帰りたくなかったな」と言われ続けたのは、仕方のないことだったと思います。

 

それがなくなったのは、つわりも治まり、久しぶりにすっきりした気分で二人でガストに外食した日のことでした。その日私は、久しぶりに「個人ポポ」が顔を出したのだと思います。料理を食べてデザートが来るまでぼんやり待っていたときに、突然涙がこぼれました。

「学校に行きたい...勉強したい。悔しい。どうして両立できなかったの、悔しい。」そう言って泣き続けました(デザートを持ってきたガストのお姉さんが戸惑っていました。ごめんなさい)。

夫は「ポポも勉強したいな。できなくてもしかたない」と私をなぐさめてくれました。そして、夫にとってこの疑問は解決したのか、それからは口にすることはなくなりました。それが本当に嬉しくて、安心しました。まだ、たまに、冗談めかして「台湾に帰る飛行機いつにする?」なんて言われますが(笑)

つわりのピークと神様のような助け(9w3d)

こんにちは、双子妊婦のポポです。

社会人大学院生をやっていた私、新学期から二週間が経過した頃のことです。

 

学校が始まる一週間前、妊娠と学業の両立にものすごく不安になり、夫に「帰国する」と泣きつきました。一足先に帰国していた夫はその週末に台湾に飛んできて、私を慰め、「ポポならできる!」と言って美味しい料理をご馳走してくれたので、すっかりやる気になりました(笑)

そして新学期の一週間は、毎朝バスで一時間かけて学校まで通い、休み明けで久しぶりにクラスメイトとも再会し、指導教授に一足先に妊娠を報告したりと、充実した日々を過ごしていたのですが...。

第二週目から、徐々につわりの症状が!朝のバスで吐き気に襲われ、最寄りの停留所で途中下車し、持っていた空袋に戻すも、今度は顔を洗いたくても洗う場所が分からない。。近くの薬局でティッシュをもらいコンビニの場所を聞きましたが、地図を見ると思ったより遠くたどり着けそうにないので、次に雑貨店のおばちゃんにトイレを借りられないか尋ねたところ、ひやかしの客だと思われて非常に冷たい対応をされてしまいました。体が弱っているときの冷たい対応が、どれだけ心折れたか...(泣)

震える足取りでガソリンスタンドのトイレまで歩き、顔を洗い、手を拭き、そのまま次のバスが来るのを待ちました。幸いにも学校に着いた時には授業開始前で、誰にも気づかれることなく普段の一日が始まりましたが、それ以来バスに乗るのがトラウマになってしまいました。

金曜日まで、祈るような思いで過ごしましたが、その後の三連休を経て、とても再び学校に行くような気力は湧いてきませんでした。夜中になると吐いてしまい、このまま死ぬんじゃないかというほど不安になりました。

近所に住む友達に事情を話し、頼ろうとしましたが、彼女も忙しく都合がつきません。そんなとき、たまたま別件で連絡をくれた友達に状況を伝えると、ありがたいことに、「そんなに一人でつらかったらうちにおいで」と言ってもらえました。正直、買い物すら危ぶまれていた状況で、次にお腹がすくのが恐怖でたまらなかったので、本当にありがたかったです。

この日が私にとってつわりのピークだったように思います。ちょうど10週でしたが、何より「たった一人で異国で妊娠生活をしている」ことへの不安が、より状態を悪化させていたのだと思います。ついでにビタミンサプリの飲み忘れも、嘔吐と関係あったかもしれませんね。

その後友達の家で生活するようになって、「いつでも家に人がいる」「いつでも食べるものがある」という状況にどれだけ救われたかわかりません。双子が産まれたら、「あなたたちは台湾人の親切のおかげで産まれてこれたのよ」と言い聞かせるつもりです。いつか台湾に恩返ししてくれるような子に育ったらいいなぁ。